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2025-12-09

スーパーマーケットにて

  2025年、私の大きな変化と言えば、家から歩いて数秒のスーパーマーケットにたまにしか行かなくなったことだ。胃ろうを付けた7月以前は週に5回“通って”いたが、経管栄養が主になり経口摂取が減った今は月に数回になった。もちろんウィンドウショッピングをするならば、頻度を減らす必要が無い。

 しかしお店に行って商品を見ていると、気持ちがざわつくのだ。「なぜ私は食べられないんだ」と思っていても仕方ないが、人の感情は理性で完全に制御できないようだ。陳列されているお寿司、チャーハン、唐揚弁当、焼肉弁当、ランチパック、チーズ蒸しパン、ミートソース、ラザニア、たらこ入りポテトサラダ、グラタン、お好み焼き、惣菜パンを見ていると、言葉に言い表すことが出来ないモヤモヤ感が脳内に充満してくる。自然と目が潤んでくる。私にも、「どうしようもない感情」は有るのねと気づく。

 1年後、このモヤモヤはどうなるか、。店内の「クリスマスパーティをしよう!」というポップを見ながら思う。

2025-10-03

食べることに障害があること

  25年7月、誤嚥性肺炎を予防するため、胃ろうを付けて、口からの栄養摂取を1日1回にした。この状況になり切に感じることは、世の中の、食べ物に関する飽くことの無い関心の強さである。

 人との雑談で食べ物について話をする(「○○っておいしいよね」等)、テレビ・ラジオでの食品広告、通販番組、グルメ番組。それは、人類が地球に誕生したときから食べる行為をしてきた証左であり、長い歴史と多様な食文化が育まれてきた。しかし食べることがかなり制限されている身からすると、とても切なくなる。人との会話は仕方がないので付き合うが、少しストレスがたまる。グルメ番組が多いテレビは見なくなり、好きなラジオも食べ物紹介コーナーや通販の時は、イライラする。1日1回経口摂取出来る私ですらそうなのだから、経口摂取が出来ない方は、計り知れない悲しさがあると思う。どうしたら良いのだろうか?

2025-09-01

自立生活の第2幕 開始

 

 私のベッドから見える電波塔。8月12日に退院してから毎日、朝5時に朝日を浴び電波塔を見ている。

 この風景を眺めていると、、病院・施設ではなく、地域で暮らしている実感がわいてくる。「今日は何をしようかな」、「どこにいこうかな」。何をしても自由だ。

 

 8月30日、ヘルパーの胃ろう・痰吸引研修が一段落し、経管栄養が1日3回になった。自立生活の第2幕がスタートした


2025-08-10

胃ろうをつけた経緯1:きっかけは、ただの、咽頭痛だった

  この夏、私は突如、胃ろう(胃に穴を空けて、そこから栄養をとる方法)にすることになった。このような事態になろうとは、夢にも思わなかった。

 4回にわたり、そのきっかけについて書く。

 

2025年7月3日、「ちょっと喉が痛いなぁ」と思った。生きてれば誰もがいつでも生じる風邪の症状。それが、胃ろうをつけることになるとは、想像すらしなかった。

 その日は、近所のクリニックに受診、私は咽頭痛が悪化しやすいため、抗生物質をもらった。これで安心だ。「今回は早めに対処できたな」と自画自賛していた。しかし2日後の5日、熱が38度に上がったため、昼間スーパーに行ったが、基本はベッドで寝ていた。夜には下がるだろうと思ったが、38度台からビクともしなかった。6日、第27回の参議院選挙の期日前投票に行きたい気持ちを抑えて、その日も寝ていた。夜、39度台の熱と激しい咳に襲われた。「これは肺炎だな」と悟りながら、苦しい一夜を過ごす。見事に一睡も出来ず、意識が少し薄まった。「熱よ。下がれ!入院だけはしたくない」と願った。

 7日の朝、LINEで訪問看護に相談したら、「クリニックに行きなさい」といわれた。7日は予定があったので「明日じゃだめですか」と聞くと、「だめです」ときた。しかも3人も。いつもは優しい看護士さんとリハビリの先生がこんなに怒るとは。渋々クリニックに受診したら、「いぜんと同じように大きな病院で検査が必要。酸素飽和度が80なので救急車で行って」といわれた。救急車?。「俺、そんなに死にそうもないから歩いても行けるぜ」と言いたかったが、緊張でパソコンが打てなかった。しかし、申し訳なさを感じながら救急車に車椅子ごと乗った。まさか40年ぶりに乗るなんて思わなかった。40年前の1985年の7月8日、私は生まれてすぐ救急車で大病院に運ばれたらしい。運命を感じた。まったく嬉しくない誕生日イベントだ。ただ、救急隊員から「誕生日おめでとう」といわれ、少し心が和んだ。

胃ろうをつけた経緯2:つける決断

 ERでは、様々検査をしたが、尿検査がいやだった。おしっこを採取するのに、断りせず尿道カテーテルを入れたのだ。「『おしっこを出せますか?』とか、『尿瓶で出来ますか?』と聞けば良いのに・・・!」。「まぁ、サッサと採取したい気持ちはわかるけど」。そんな障害者あるあるもあって、2時間後、医師から「肺の下が暗い。肺炎ですね、1週間の入院になると思います。」と言われた。「今週末には戻れそうだ」と思ったが、それは甘かった。

 この病院は、よく入院しているところで、私が24時間ヘルパーが必要で個室がいることを覚えてくださり、用意してくれた。本当にありがたい。

7日に入院して一週間、熱と咳がなかなか治らなかった。日曜日の13日には熱が下がってきた。また喉の菌が誤飲して肺炎になったと言うことで嚥下検査もすることになった。これまでに2回嚥下検査を受けていずれも問題なかったため、「今回も平気だと思っていた。しかし14日の結果は、食べ物を食べると途中で肺に入っていることが確認されたのだ。ガーン。翌日、詳しい結果を説明され、そして「胃ろうも選択肢にあるよ」と言われた。

それを聞いて、あまりショックはなかった。というのは、ここ一年、飲み食いする度に首の緊張が強くでてつらかったためである。「何で人間は、生きるのに必要な呼吸する・栄養摂取することを首回りに集中させているのだろう」と恨むことが多々あった。胃ろうで、毎食の辛さが無くなることは良いと考えた。新しいもの好きの性格にも後押しされ、即答で「胃ろうにします」と告げた。いったん退院してから、よく調べて胃ろうをつけることも考えたが、「判断が鈍るな」と思って即決した。家族からは、「周りのことも考えろ」とちょっと怒られたが、許してくれた。医師からオペの説明があるかなと思ったけど、特段なかった。即決しすぎて「もうおまえには説明はいらない」と思われたかもしれない。しかし看護士や、言語聴覚士、理学療法士の先生は、私をかなり理解してくださり、不安はなかった。外科の診察、血液検査、エコー検査等を経て、7月22日オペをした。


 

胃ろうをつけた経緯3:つけた後

 「オペは、局所麻酔かな。先生は脳性麻痺のことをわかっているのだろうか」と考えながら廊下で待っていると、10分後呼ばれた。内視鏡のマウスピースが噛めず、、身体が勝手に動くとわかると、全身麻酔に切り替えてくれた。ほっとした。措置は20分程度。

 麻酔から覚めたら、そこは、激痛の嵐だった。6日間続くことになる。激痛に追い打ちをかけたのが、穴の位置で、ちょうど側わんの筋肉に穴を空けたのだ。穴を空けたのだから、身体の歪みも弱くなったら良いのに」と切に思ってみたが、そこは世の中そううまく出来ていない。身体、特に左足を動かすと激痛が襲ってくる。左足は、パソコン操作で使う部位であり、それが使えなくなると言うことは、私にとって重大な問題である。胃ろうの選択は失敗だったのか、そう思えば思うほど、痛みも増幅する。激痛と怒りが6日間続いた。措置後8日目から激痛は少しづつ収まりはじめ、パソコンもやれるようになった。奇跡である。傷口の治りは車椅子ベルトにあたるため悪いが、8月10日現在ほとんど痛みはない。姉のお守りのせいかもしれない。

胃ろうをつけた経緯4:退院へ

 激痛が治まり始めた7月26日頃、相談支援の方が来て、退院後の生活について話し合った。そこで浮かび上がった課題は、以下の通りである。

1,ヘルパー(バックアップ要員を含め約30名)の胃ろう・痰吸引研修はどうするのか。

2.胃ろうの衛生ケア、月1回の注入口の交換は、どうするか。

3.吸引機の購入。

3点については相談支援と訪問看護がリーダーシップをとっていただき、実現に向けて動いてくださった。私は「今後もこの市で自立生活をしたい。ヘルパーには合法的に胃ろう・痰吸引をしてもらいたい」と何度も言い、LINEとメールで打ち合わせを重ねていった。今から思うと、朝7時にLINEで要望するのはカスタマーハラスメントだったかもしれない。申し訳ない。

2の胃ろうの衛生ケアや交換については、訪問看護ステーションに加えて、新たに訪問診療をお願いすることにした。訪問診療は訪問看護と違うなど知らなかったが、相談支援とステーションが手続きをサポートしてくださった。「平時から訪問診療を検討しておけば良かったな」と後悔する。以前に連携していれば、もう少し早く家に戻ることが出来たかもしれない。

1のヘルパーの胃ろう・痰吸引の資格について。今の法令では、ヘルパーが経管栄養をするためには、座学8時間と実地研修2回、テストを受ける必要がある。実地研修は1日一人しか受けることが出来ない。全員が資格を取るのに数か月かかる。その間、どうするのか。打ち合わせの過程では、長期療養型病院に移るかという話も出て来た。入院した病院は急性期病院のため、制度上長くいることは出来ない。しかし私は、以下を退院支援の方に明確に伝え、転院には強く反対した。

 

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転院はしたくないです。これが通れば、何でも従います。退院日については皆さんで話し合ってください。意見は言いますが、基本聞いています。

ただし、退院日の前日に言われると、タクシーなどがとることが出来ないので、2日前にわかると、嬉しいです。

【転院不可の理由】

転院先がヘルパー24時間付き添いを許可するかが不明です(実際、系列病院に確認すると、ヘルパーは難しいですと言われたらしい。また場所によっては病院に行くことの出来ないヘルパーもいると思います。

ヘルパーがいなければ、布団の調整、車椅子に乗ること、パソコンで意思を伝えることが出来ません。ストレスがたまり、体調が悪化します。

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退院支援の担当者は、私の要望をとても尊重してくださり、訪問診療とステーションに密に掛け合ってくれた。そして8月7日、合同カンファレンスで退院日が8月12日に決まった。

退院後は、ヘルパーたちが資格をとるまでは家族と訪問看護ステーションに頑張ってもらう。本当にありがたい。

 36日間の入院は終わるが、誤嚥したときに使う吸引機がまだ届かない、カロリーが不明、経口摂取がどのくらい行えるかなど、安心できない。しかし冒険はこれから始まる。ワクワクである。

2025-07-16

40代の決意

 2025年7月13日

立川で生きて、立川で死ぬ、施設に行きたくない