2025-04-02

入院して、わかったこと(24年秋)

  以下の文章は、ある団体の機関紙に寄せたものを再構成しました。

 今日は、地域で生活している障害者の立場から、医療について考えることを書く。

 私は2024年の秋・冬に急性心不全、誤嚥性肺炎になり、合わせて25日間入院した。約1ヶ月も入院したことは初めてだった。

「障害者の自立生活には、 自分が元気であることと、病気時も地域生活を中断せず治療が行えることが、大切だ」。入院では、それを実感した。医療は私たち障害者の可能性を制限する面もあるが、元気にいるためには医療が必要だ。私たちは医療を、自立した生活と地域社会へのインクルージョン(国連・障害者権利条約の第19条の実現)に生かすことが重要である。


体調不良になる前は、「多少、体が疲れても乗り切れる」と、医療を自立生活の対置概念として捉えてしまっていた。しかし、緊張による過呼吸、動悸が増え始め、食事が取りにくくなり、「あれ?明日も生きてられる?」と思うようになった。それでも「加齢で緊張が強まっただけ」と考えていたら、ヘルパーが「両足のむくみや痰がすごいよ」と教えてくれた。数週間経ってもが治らないため、近所のクリニックで血液検査を受けたら、入院となった。

入院中は本やラジオ、テレビを見る気がしなかったため、自分の生活について考える時間がたっぷりとあった。様々なことを思索したが、わかったのが冒頭に述べた、「自立生活の要は、『自分が元気である』、『病気時、地域生活を中断せず治療が行える』こと」だ。出来事を3つ述べたい。

入院で一番良かったことは、ヘルパーを24時間入れることができたことである。救急外来で様々な検査をしているときに医師から「入院になりそうかな、うち完全看護だけど、ヘルパーつける?」と聞かれ、間髪入れず文字盤で「入れたいです!」と言った。医師は必要ないのでは?という雰囲気だったが、私は整然と文字盤で粘って、許可を得た(※)。


※重度訪問介護では、一定の基準を満たせば入院中のヘルパー利用は可能です。ただし病院の理解が必要


はじめにして最大の関門を突破した。その体力が残っていて本当に良かったと思う。この対話があったおかげで、医療スタッフはその後、治療についてヘルパーではなく私に聞いてくれたかもしれない。ヘルパーを入れたかった理由は、私の介助が特殊すぎるため看護師にはできないことと、ヘルパーの労働確保の二つである。とくに後者は、「長く、介助をストップさせれば、離職の要因になり、今後の自立生活が危なくなる」という危機感があった。入院した病院は、ヘルパーを快く受け入れくれて、簡易ベッド・布団の貸与、早朝・夜間にヘルパー交代する際に病棟ドアの開閉も応じてくれた。とても感謝している。

次に良かったことは、私の家から徒歩圏内に、訪問看護ステーション、かかりつけのクリニック、入院した病院があったことだ。必要とする医療が地域で受けられることは、障害者権利条約25条(健康)に沿うもので、自立生活の継続性につながる。また家に近いことで、ヘルパーたちが病院にスムーズに来ることができたと思う。退院後、すっきりとは治っていかないが、近くに医療が受けられるところがあると安心できる。

 今回、納得のいく治療を受けることができた。しかし残念だったのは、医者や看護師が、障害者が地域で暮らしていることについて知らないことである。例えば,重度訪問介護という制度があり、ヘルパーが長時間付き添うことができることについて知らなかった。また、ある看護師は処置中、「今や、ダウン症でも50歳ぐらい生きられる時代」と、自分の知識を披露しつつ、「この人(私)は障害者入所施設に行くべきじゃなかったのかな」と話していた。ダウン症の寿命については明らかに間違いで、その知識は、過去のものだ。後者の「障害者は専用施設」論は、専門性を重要視する医学の発想だが、明らかに優生思想である。家の近くの病院に行ってはダメなのか。悲しかったのは、彼の発言を耳にした3~4名の医師・看護師が反論しなかったことである。

   日本では障害を受傷したとき、病院に行き処置や医療アドバイスを受ける。その医師や看護師が、障害者の地域生活を知らず、施設に行くものという考えだった場合、患者も「もう障害を負ったら施設だね」と思ってしまう。日本の施設主義は根本的に、障害者の地域生活への無知識があるかもしれない。医療関係者の無知識を無くすため、今後も私は「できればここ(T市)で診てほしい」と言い続けたい。